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2011年1月

2011/01/31

うえきさん

今日、うえきさんがブラジルへ飛んだ。

うえきさんは お友達だ。

自分勝手で、気まぐれで、飽きっぽくて
意固地で、辛抱が足りなくて、
露骨に顔や表情に気分が出て、
自分がしたいと思えば周囲の事は二の次で
そのくせに人の事を気にして、デリケートで
でも、そうやって人に指摘されると
物凄く意地を張って、素直でなくて、
直情的で、目立ちたがり屋で、負けず嫌いで、適当で・・。

でも、そんなん全部ちっこい事と思える位に痛快だ。
うえきさんの長所は、うえきさんの短所を圧倒する。

お行きなさい!我が同胞よ。
海を渡って裏側で痛快に生きなさい。

夏の一時帰国の時にどうなっているか楽しみだ。

俺はそれまでに色んな重荷を下ろして身軽に会いたい。

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2011/01/22

スパイクを脱ぐ男④ 伝庄優

伝庄優にとってV・ファーレン長崎というチーム、長崎という街は郷里以外で知る唯一の物だった。

北海道で生まれ、北海道で育ち、コンサドーレ札幌Jrユースの一期生として入団。ユースまでを順調に昇格し札幌の未来と言える存在だった。実際、ユースだった頃はトップチームの監督だった柱谷監督に何度もトップチームの練習に呼ばれていたと言う。現役時代に闘将と呼ばれ一時代を築いたCBだった監督の目に伝はどう映っていたのだろう?

その後、柱谷監督が解雇されると伝も呼ばれる事が減り・・伝もトップチーム昇格ならず大学への進学を決める。

道都大での伝の存在はズバ抜けていた。
頑健で強さのあるDF・・大学リーグ屈指の存在感を放つ。

(Jリーガーになりたい)
幾つかのクラブのテスト受けて長崎へやって来る。
伝が来た当時の長崎は迷走していた。セレクション実施時期も他のクラブに比べて大きく遅れた。もし、この時に他のセレクションと開催がかぶっていれば伝は長崎にやってきただろうか・・。

「伝庄に当たってみろよ。壁だよ、壁。半端ないから」
07年のシーズン後の練習中、現在J2でプレイする佐野裕哉は競り合いで簡単に自分を弾き返した伝をそう評した。

伝のポジション争いの相手はもっぱら加藤だった。
加藤は外見と裏腹に細やかで器用な選手で、伝は無骨な程の直線勝負の選手。
必然的に伝はプレイの成否、勝敗が目に見える形で見えやすい。

07年にNW北九州(現ギラヴァンツ)の藤吉に決められたゴール、08年の沖縄かりゆし戦で斎藤に振り切られるシーン・・覚えている人も多いと思う。

プレイの仕方一つで自分の責任範囲を狭く見せる事もやろうと思えば出来たかもしれない。無難なプレイで他の選手に任せる逃げのプレイも出来たかもしれない。

でも、伝はそれを絶対にやらなかった。
素直な性格そのままに正面から向かって勝負を挑み続けた。
そんなプレイは安定感が求められるCBのPOS争いでは不利なのに・・思い切ってチャレンジした結果、綺麗に逆を突かれ、時に振り切られ、完全にねじ伏せられた事もあった。

でも、そんなプレイが見ていて妙に心地よかった。
多分、藤吉に決められた試合も斎藤にやられた試合も・・誰も伝のせいで負けたなんて思っていない。誰も伝の心が折られたなんて思っていない。

佐野裕哉が壁と評した頑健さを武器にただただ駆け続けた。
そんな素直さと正直さが伝の強さだったと思うから。

長崎を解雇された伝はいくつかのクラブでテストを受け、最終的に郷里に戻って引退を決めたと言う。素直だからこそ、子供の頃からの夢を諦める事は本当に辛かったと思う。

3年間、伝は伝庄優のプレイスタイルと素直さを貫き通してフィールドから去った。

北からやってきた青年は、初めて郷里を離れた西の街で、チームで何を感じ何を知ったのだろう。新しい世界でも彼はきっと正面からまっ正直に挑み戦って行くだろう。
それが伝庄優だから。

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2011/01/14

小嶺社長退任の報をうけて思う

小嶺前社長は絶大な知名度とフットボール界での圧倒的な実績を誇るが、社長としての評価は正直、芳しいものではなかった。

だが、小嶺忠敏前社長抜き長崎にJを目指すチームを作る事は出来なかったのは間違いない。小嶺前社長くらいの実績と実行力がなければ不可能だった。

長崎県の経済力や地理など環境はJを目指すにはかなり分が悪い。
「鳥取の人口は長崎より少ない」とか意見はあるだろうが、地理的な問題や地域性を調べれば人口の大小を覆すデータなぞゴロゴロしている。それに鳥取では単年で億単位の税金投入の果てにJ2昇格している。琉球?オーナーのポケットマネーに依っている経営が長崎と比較出来るだろうか?

そんな厳しい(本来はそれが正当な姿なのだが・・)長崎に置いてJを目指すなんて夢を推進するには有志の善意だけでは無理だ。それを推進する大きなエンジンが必要で、それがまさに小嶺前社長だった。

クラブ創設の原動力・・これに勝る功績は誰にも残せない。
これだけで小嶺前社長は万雷の拍手で送り出されるべき大功労者だ。

だが、その絶大な実績と影響力は大き過ぎる故にコントロールが難しかった。本来なら何気ない一言が周囲に大きな影響を与える。普通の会社の社長と同様に何気なく言っただけのアドバイスがそのまま命令ととられる事もある。

小嶺前社長と会った方は判るだろうが、本当にフットボールが好きで好きで溜まらない・・ある意味でフットボールの現場で純粋培養されてきたかのような人だ。そして、長らく高校生を見てきた事から体の芯から教育者、徳育者としての信条が染み着いている。そんな教育者である為に経営という部分に向かない事も多かった。

だから、本人はそんな気がなくとも、何げなく言った一言が指示のように取られ失策を招く事もあり・・。

本来、必要だったのはそんな影響力をしっかり受け止めて対処出来るだけのクラブ体制や方針だったのだが長崎にはそれが欠けていたし、社長に敢然と意見が出来る体制を作る事も無かった。

その為・・特に一時期はこの影響力のコントロールが難しくクラブの中に色々と支障を引き起こし、結果的に小嶺社長は影響力を懸念して出来るだけ黙するようになる。周囲も細かい事は社長に報告せず、独自決済を行うようになったりして・・本来は社長を頂点として作られるべき組織が作られず・・いびつな形となってしまった。

ちなみに選挙に関してはV・V長崎のと言うより、小嶺前社長の個人的な関係もあるのでここでは取り上げない。個人的には出馬するもしないも個人の自由で何も言うことはないが、V・V長崎の社長職は辞して出馬すべきだったとは思う。政治とクラブがどういう形であれ関係を持つことはやめるべきだから・・。

さて、話は戻る。
もし、しっかりとした組織体制のプランを立てて、小嶺前社長の影響力を上手くコントロール出来れば、もの凄いパワーになっていたと思う。

「まず実行してみよう。まずはトライしよう」
この発想があったからこそ、V・V長崎は誕生したと思う。関係者の即断即行ぶりは尊敬に値する。その関係者が動きまくっている間に何もせず、何も知らなかった身で何を言うと言われるの覚悟で発言するなら・・もし行動が始まっておおよその方針が掴めた時点で将来を見据えた構想にステップアップ出来ていれば・・歴史は違っていたんだろう。

個人的には小嶺前社長は社長より強化部とかの現場に強く関係した仕事をやりたかったのではと思う。本当にそういう協力をしたいと思っていると思うし、それが本来は1番、長崎にとって良い道だったんだと思う。

だが、小嶺前社長を部下に出来るような人材はそうそういない。その為に小嶺前社長は社長という本来不向きな経営トップを努めざるえなかった。そして、その小嶺社長を支える体制も、クラブ方針も無い・・ある意味で現在の状況は当然と言えると思う。

無論、トップである小嶺社長には迷走した責任はある。だが、小嶺社長のみの責任でもないし、組織やクラブ自体にも同じくらい・・いやそれ以上に責任がある。
そこはしっかり覚えておきたい。

・・V・VAREN長崎というクラブは小嶺前社長という他県には存在しない強烈なエネルギーを使いこなせなかったとも言える。

クラブは新社長を迎えて、これまでのいびつな組織から本来の社長を中心として組織へ変わるのだろう。小嶺前社長はそのいびつな組織の責任を全て背負って、新社長へ綺麗な形でバトンを渡した。

これからは思う存分に高校や大学をはじめ色んなフットボールの現場に打ち込んで欲しい。

小嶺前社長は本人の希望でチームのアドバイザーに就任した。経営やクラブ方針には一切口を挟まず、選手補強についてや人脈面でのみの協力になると言う。ちなみに誰もが想定外だった佐野裕哉に声をかけ呼んだのは小嶺社長だし、佐野監督も小嶺社長のルートだったりする。そのルートや感覚は未だに圧倒的だ。

ようやく、本来やりたかった仕事に近い立場になったんだと思う。もう権限はないけれど・・先日、逢った小嶺前社長は本当に明かるい吹っ切れた顔をしていた。

「これからはアドバイスとかで協力したいと思いますんで、またよろしくお願いします」
そう言って笑った。

やはり太陽は明るい方が良い。

そして、クラブも未来へ向ってドンドン進んで行きたいものだ。

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2011/01/10

長崎の非常、V・ファーレンの無常⑤

さて、いよいよ最終回。

昇格断念が本当に怖いのは時間が経ってからだ。断念直後はショックが大きい一方、現実感が薄かったり、希望的観測がまだあったりする。だが、時間は気力を奪い希望的観測を打ち砕く。不満は大きく、夢は小さくなっていく。

昇格断念後、現場は4位に入りで状況打開を狙ったが、それはとても厳しいものだった。精神力とチーム総合力の問われる終盤にモチベーションが揺らぎ、来季方針も判らないチーム状態。上位4チームとの成績は1勝7敗。正直上位4チームと1ランク差があったと思う。それでも長崎は最後まで崩れ落ちず、踏ん張りを見せた。

これは佐野達の手腕と、選手同士の強力な一体感が支えたと言えるだろう。
今年のチームは選手同士が驚く程よくまとまっていた。プライベートでの仲の良さが全て良い方向でピッチに出ていた。
そして佐野達の手腕であるが、反発を持つ選手も居たし、起用もこだわりが強すぎる面があり、問題がなかった訳ではない。だが心酔する選手もいたし、何より最後までブレなかった事で一定の求心力を保ち続けた。願わくば今後、ブレない事が頑なにならないように、こだわりが固執にならないようになってもらいたい。大きな影響力を持つだけに、暴走してしまえば止めるのが大変なのだから・・。

一方で、フロントは当然にシーズンが終る前から来季の事は準備を行っていた。
そしてチーム変革の為に大量の退団者を出した。本来はクラブが決めた変革方針の為の決断であり、それが正解か不正解か誰にも判らない以上・・どうこう言う事ではない。だがその手際が今回は悪く多くの非難と傷を残した。

サッカー選手、特にJリーガー以外や、Jリーガーでも実績のない選手は周囲が思う以上に給与は安い。昔、某J2のルーキーと話した時に年俸が70万と聞いてビビった事がある。そんな給与で彼らがプレイをするのは何故か?フットボールが好きだからだし、今は給与が少なくとも活躍次第で上がっていくはずだからだ。

実際、V・V長崎の育成枠はその考え方だ。ウチで頑張ってみないか?結果を出せば上がっていくし、活躍次第で他チームからの話もあるぞ・・という事だ。そんな選手達からすれば・・出場時間が多かったり、短くでも良い活躍をしていたり、育成枠という事で厳しい条件を受け入れていた選手からすれば・・ロクな説明もない突然の解雇は納得がいかなかったと思う。

トドメにやり方がまた不味かった。選手を部屋に呼んで封筒を手渡して「ご苦労様」で終り。あとは何の説明もなく封筒の中に「契約しません」の手紙1枚。これがJだとか、それなりの待遇のクラブならばありだったかもしれない。
だが、このクラブは色んな意味でまだ「情」で成り立っている。

V・V長崎より有名なジャパネットが胸スポンサーをやるのはビジネスか?利益率の悪いV・スナを東洋軒さんが出し続けるのはビジネスか? ビジネスだけではないからこそ、県も協力している筈だ。これからは情に頼りませんと言うのなら「選手だけ」から始めなくて良かった。成績不振で解雇された監督が強化部に就いて、2年連続で昇格断念した事はビジネスならどう判断するのか?

 クラブはマズイやり方で結果的に選手にだけ責任をとらせたような格好になってしまった。そんな気持ちはなかったはずなのに・・。

さて、そろそろのこの話題を〆る。
今回の出来事はクラブ体制の未成熟というのが一番大きいが、もう一つ露呈したのが「長崎語」をクラブの誰もが語らなかった事だ。クラブにはそれぞれ独自の雰囲気・伝統・歴史がある。それはそのクラブだけで通じる言語のようなものでV・V長崎では長崎語と言い換える事が出来る。

その長崎語と新しく外から来た言葉を組み合わせて行く事が進化だと思う。長崎語を主張し、考えていれば解雇選手への対応やセレモニー等は別の展開になったのろう。退団した選手、残った選手、ファン、そしてクラブ・・誰一人得をしない失態を最後の最後にやって2010年は終った。

とても悲しいシーズンの終りで大きな傷を背負ってしまった。
だが、どれほど傷を負おうとも、どれほど失敗しようとも2011年はやってきて、新しいシーズンは始まる。新しい選手達も長崎の街へやってくる。そして、これだけ色んな事があってもまだまだV・ファーレン長崎を好きな人間が沢山いる。失敗は無くなる事はないけれど取り返す事が出来る。傷は消えないかもしれないけれど癒す事が出来る。

俺達とV・VAREN長崎の7年目が始まる。

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2011/01/08

長崎の非常、V・ファーレンの無常④

それまでもあっていたのだがV・V長崎は2010年2月に組織を改変した。
社長、専務、強化、育成、広報、地域振興、運営、事業、総務、後援会事務局・・ただ部下が殆どいないので、職務以外にも駆り出されたりする。地域振興部には部長の下に2名配属。この辺が「地域密着事業のニュースばかり」と評された理由。

次いで採算度外視で集客を図る「ポイントゲーム」を設定。ポイントゲーム以外では無料券配布は最低限。ポイントゲームは「開幕戦 vsロック(柿泊)」「第8節 vsガイナーレ(県総)」「第16節 vs流経大(県総)」「後期4節 vs SAGAWA(佐世保)」「後期9節 vs秋田(柿泊)」「最終節 vsジェフR」(柿泊)」の6試合。

試み自体はとても良く、集客効果はあったのだが・・情報収集にこのクラブは難がある。

この計画を聞いたのが3月に指摘した事がある。「6月のポイントゲームと同日にW杯日本戦ですよ。」クラブはW杯日本戦の日程やを把握していなかった。時間もかぶる。そこで「パブリックビューイング(PV)」を提案した。PVは「家庭用受信機」程度での無料の集団観戦ならPVとは見なされない。・・ただ、諸事情からPVは無くなり試合時間を1時間前倒しして行う事となった。

5月・・クラブ内にアクシデントが起こった。
結果営業に支障が出た。強化部長もクラブを去った。解決した事なので内容は書かないが、どこにでもある事柄の放置、誤解人事、煽る者達・・今まで対応しなかった結果起きた事だ。そして、この一件はクラブのムードを重くさせた。

6月頃からクラブはJ加盟申請の準備をしていたが・・改修が間に合わない事が次第に判明する。「市の協力」に対する解釈に違いがが原因だ。クラブは市と協議を重ねたが結局市側の協力は最低限となる。資金も厳しかった。遠征帯同選手をギリギリに絞り、スタッフが関東まで車で移動する。資本金増強プランも準備されていたが、このままでは増強した資本金は運営費に当てないと・・そんな話が漏れてくる有様だった。

こうして5月から起きた一連のトラブルはV・ファーレン長崎にとってネガティブな印象と情報を広め、クラブはスポンサーへの説明に追われる事となる。フロントにとって本当に5月以来厳しい環境だったと言えるだろう。

そんな中で夢を感じさせたのが元代表選手を集めた「J・FREAMS」。最初の対戦候補は国見OBだったが佐世保選抜になったと言う。出場にはC大阪ファンなら涙を流して見たい選手や、仏W杯の頃に水をかけられた人や、「日本が南アW杯決勝戦まで行ったら」という条件付きで松井大輔も予定されていたという噂だ。上手く使いこなせない面はあったが、以後に生かしてもらいたい。

9月9日、クラブは選手へJ加盟断念を伝えた。
09年はクラブ→監督→選手と言う方法が取られたそうだ。しかし当時の岩本監督が直前までフロントであった為に選手の不信が集中し、結局11位まで下降した。その経験から、チームが全面に出て選手へ説明が行われた。クラブは関係先へ第一報を入れ、その後スタッフが分担して説明に回る。後に「まずは県民に説明すべき!」という意見が上がるのだが・・クラブも発表を後回しにしていたのではない事は記しておく。

9日に断念を伝え関係先へ連絡。11日はJFL公式戦移動日。12日に長野で試合。13日はオフ。14日はクラブ内の全体ミーティング。関係先へ変な形で情報が回れば混乱を招く、選手への混乱を最小限にした上で正式にマスコミ発表。流れは間違っていない。

だが、問題は2点。スピードと発表する情報の中身だ。
9日に選手に伝達が出来たのなら前夜から動いて、会見を10日夜に設定すれば2日で最低限の連絡は出来たと思う。また、16日の会見でクラブが何をしたいかハッキリさせる事が出来なかった。

さて、この昇格断念は強烈なものだったが不信が去年のように監督に向けられなかっただけマシだと思う。勿論、「フロント駄目だ」と思った者もいるが、「何とか俺達がしなければ!」と思う者もいた。こうしてフロントが非常に限界点を走行している頃・・順調であったピッチ内にも徐々に限界が迫ろうとしていた。

つづく・・一応、次回で最終回の予定。

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2011/01/07

長崎の非常、V・ファーレンの無常③

基本的な2010長崎の戦い方は昨日述べた通りだが、最初から順調だった訳ではない。

特に佐野フットボールにおいて鬼の如く攻撃に参加するSBは苦労した・・特に左SB。
生粋の左SBではクロスを武器とする梶原がいたのだが、昨日記した通り、佐野フットボールでは早い段階でクロスを入れない。切れ込んでゴール前に行くかサイド深くに入り込む能力が求められる。この為にシーズン前のFW宮尾がコンバートされたりしたが上手くいかなかった。斉藤獲得も左SB人材難の為に急遽で追加獲得したものである。それほど人選は難航していた。

今年の長崎は戦術や布陣がこの左SBの固定前と固定後に大別される。
開幕から5月末までの基本布陣は4-2-2-2。攻撃時には右サイドが上がり気味の4-3-3。あえて右を上げたのではなく、左サイドが上がれなかった為に右サイドだけが上がっているような形になっていた。その為に攻撃のバランスを欠く事が多く序盤の苦戦へとつながっていた。

この流れが変わるのが6月頃、怪我から復帰の神崎が左SBに入り左の攻撃力が上がった事を受けて、山城と山本は守備やバランスを第一に考える事が可能となる。こうして2010長崎のベースはほぼ固まる。

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前線で宮尾はポストで潰れ役をこなし、アリは自在に動いて常に効果的な位置をとる。神崎と杉山は攻撃参加をするのだが・・ここで鍵となるのが元気だ。元気は運動量も少ない。その為にピッチでは中央上がり目にいる事が多かった。その為に攻撃参加のコースが空いて杉山は攻撃参加しやすい。そしてアリと山城・山本、時にアリと山城は美味く元気をフォローする。

この攻撃的な動きを支えのは守備で、山本・加藤・藤井・近藤に支えられていた。自由に攻撃する攻撃陣がうらめしい時もあったろうが、彼らDF陣の働きがあればこそ攻撃的な動きを引き出せた事は忘れてはならない。

これら順調であったチーム構築だが、J昇格断念があってから勝つ為の戦いに集中できなくなった点は惜しかった。

さて、物凄く乱暴にザっとだけ紹介した2010年の長崎の戦術だが・・これらが進行していく裏でフロントは業務に追われていた。追われまくっていた。何も見えない程に。

V・VAREN長崎のフロント最大の問題点は「システム化」「組織化」がまったく出来ていない事である。

例えば、あるイベントを行おうとクラブと協議する。
クラブとしてはキチンと処理して会議にかけられ、クラブからイベント関係者へ連絡はある。だが、その後、そのイベント実行に際しての実務レベルの協議事項や情報が担当者レベルで止まり、クラブ全体で情報共有が出来ない。
また情報共有を行ってもしっかりそれが確認されない。その為にイベント関係者が話し合いや連絡をしようにも、担当者が不在の時は話が伝わらない。クラブに説明すると「あぁ、そういえば●●さんがそんな事言ってました。それで何をするんですか?」という有様だ。

これらの大半はフロントの人的問題ではなく、クラブとして連絡・連携システムがしっかり構築されていない事が根っこにある、その為に、連絡したくても中々進まない。また事情を理解しているスタッフが少ない為に業務に追われて連絡がますます遅れる・・。それを何とか打開する為のシステム化、組織化を行いたいが業務が多くてそれをジックリ検討したり、議論する時間も作れない。その辺はちょっとでも気を抜けば資金難に追われる地方クラブの多忙さと言う泣き所かもしれない。

その辺含めた今年の運営の事を明日から書こうと思う。

つづく

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2011/01/06

長崎の非常、V・ファーレンの無常②

さて、新体制が固まってきた事は前回述べた通り・・

「同じチームで戦えるのは3年」とフットボール界では言われる。つまり変革が無ければ成長は無いと言う事。変革のパターンは2つ。毎年、計画に基づいてマイナーチェンジを繰り返すか、頃合を見計らって一気にモデルチェンジを図るか・・。

本来なら、08年に東川体制になった際に選手・チーム変革は行われるべきだったのが、東さんは壊して作り直すタイプではなかったし、東さん自身も磨耗してしまっていた。チームにも変革を考える余裕が無かった。08年は昇格に失敗すればクラブ方針の転換が噂された有様だったのだから・・。

その東さんが2010年の強化部となった。
成績不振で解雇された監督が強化部というのは妙な話で、実際一部選手からも不満が出ていた。実は東さんには他チームからオファーがあり色々考えてオファーを受けるか考えあぐねていたらしい。長崎のフロントは東さんについて、一定の評価をしており、またクラブ内に強化部に適した人材が少なかった事もあり、指導者として再起の道筋を作って・・その上で他チームのオファーを受けるなり、長崎でトップを目指すなりすればと強化部の職を託す。この温情人事とクラブ組織としての稚拙さは後に別のトラブルを招く事となる。

こうして始動した体制は予想以上の滑り出しを見せた。
佐野さんのフットボールはこれまでの長崎では無かったし(方向性は東さんと近いが余り機能しなかった)、プロの雰囲気や空気がピッチに持ち込まれた。コーチ陣の存在も大きい。堺コーチがトレーニングを担当し、佐野さんは指導に集中、堺コーチの存在が佐野さんが孤立させる事も無かった。前年末に不信の念で一杯だった反動もあり、選手らは久しぶりにサッカーに純粋に打ち込み始めた。

佐野さんの目指すサッカーは草津時代はおろか・・ずっと前からベースは変わらない。攻撃サッカーだ。

佐野サッカーは攻撃の際にゴール前に出来るだけ多くの選手を配して得点を狙う。現代の攻撃サッカーではFW、MF、SBが攻撃参加するのが当然であるが、佐野さんの特徴はその中でも、SBが超攻撃的であるという事に尽きる。

その最たる形がゴール前での”密集”である。
SB・サイドハーフの攻撃参加なら岩本さんも東さんもやった。特に岩本さんは負けず劣らずのSB攻撃参加派だ。だが、岩本さんの場合はサイドに深く切れ込んでクロスを上げる事が基本形だ。これに対して佐野さんの場合は切れ込んでクロスも狙うが・・それ以上にペナルティエリアに斜めに入っていく動きを重視した。

図にするとこう。 001_2
佐野さんの場合は、よりゴールを狙い易い位置に選手が多く入る事が判ると思う。

2010年~の図を2010年のメンバーの名前に直すとこう。
002

SBの神埼とMFの山城はここでよく点線あたりでよく連携していたのを覚えている人も多いだろう。SBがそのままエリア内に切れ込んで攻撃に加わる為にゴール前で攻める人数は最大で6名になる。それは2009年までと比べて攻撃において1~2名は必ず多く、状況によっては倍になる。

数は力。攻撃の人数が多ければそのまま攻撃のチャンスが増える
この基本原理をそのまま実践したのが佐野型攻撃サッカー2010だったりする。

攻撃に人数を割けば守備の人数が減るので少ない人数で守る必要がある。
そこで佐野さんはシンプルな対策を取った。

守備で最も強固にすべき位置はどこか?ゴールまん前の中央だ。ゴール前中央が完璧な守りを行えば100%に近い確立でゴールは奪われない・・それがフットボールだったりする。
だから、佐野さんはゴール前中央をしっかり守れる人材を好んだ。

CBに1vs1に強く、球際の粘りがある・・そして相手がフィジカルにモノを言わせても当たり負けしない人材を好んで選んだ。それは自身が現役時代にそういうタイプの選手だった事も影響しているのかもしれない。その為に09年まで主力だった久留は一気にベンチ外になる事となった。

つづく

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2011/01/05

長崎の非常、V・ファーレンの無常①

さて、2010の総括だ。
2008の「ありがとう東川昌典、さらば東川サッカー」
2009の「俺達が昇格出来なかった理由」
に続く第3弾だ。
今回もクソ長い文章だ。読む人は覚悟して読んでね。
まずは今回も2009の終り位からの話を始めよう。

09年シーズン後・・はヒドイ有様だった。
フロント、スタッフ、選手がそれぞれ不信を持っていて、サポーターも大概それに巻き込まれた。クラブは原則選手全員残留方針を打ち出していたが、この時点では選手が20名近く退団なんてのもあり得える有様で大変な状況となっていた。これに加えて、この時点ではかきどまり改修問題もかなり行き詰る。年末は随分と暗い気持ちでいたのを覚えている。

これらの問題はクラブに関わる人や手法の問題点や不満点が5年目を終え遂に限界点を迎えた事が大きく、いつかはこうなる事だったんだろうと思う。それ位にV・ファーレンは組織としてクラブチームとしてJを目指すには未成熟なままだった。ただし、少しだけ擁護するなら、長崎という日本の僻地から親会社を持たないチームがスポーツクラブ運営を成し遂げる難度が恐ろしく高いという事も忘れてはならない。

そんな状況に好転の兆しが見え始めたのが新年を迎える頃だ。

帰郷していた選手達が地元に戻り落ち着いて考えた事、11位という成績に責任を感じる者も多かった事・・かきどまり問題に光が差してきた事、更にクラブが新体制ではS級監督やコーチを招聘する事、更にクラブからも新しいコーチを1人つける事、専属のトレーナーを雇用するという改善点も影響していた。
こうして、結果的に予想より多くの選手が残留となった。

かきどまり問題に関しては、これまで何度か書いていたがJ側から「●●と△△だけ間に合わせれば・・」、「●●と△△についても実際に××していなくても、□□□□で・・」という言質をとっており、「絶望的な状況」は「あと1歩」に進歩していた。●とか△については勝手に推測してくれ、俺は答えない^^
これには県サッカー協会の素晴らしすぎる尽力があった事は記しておく。

監督人事はシーズン後から強化部もしっかり動いて2名の候補がいて結果的に佐野さんが起用される事となった。佐野さんが合流した時はまだ契約を保留している選手もいたが、チーム作りを急ぎたい監督の意向が強く、それに影響されるように次々と選手の契約は進んでいった。

その後、トライアウトなどを経て新しい顔ぶれの選手が揃う。
監督:佐野達 Hコーチ:堺陽二 コーチ:枝折祐紀 トレーナー:小林正平
主務の矢竹君以外は全員が新顔となった。

この人事が過去5年と違い初めてまともに組閣した陣容となる。
創設から6年目の長崎は変化が必要な時期となっていた。特に創設以来現場に関わってきた現常務岩本さんの存在感が良くも悪くも強く残るチームに新しい空気を送り込んでステップアップするタイミングだった。

ただ、このステップアップにはある落とし穴があった。
クラブのチームコンセプトの無さである。どういうチームを作るか?その為にどう強化するか?その為にどんな方針の監督を呼ぶか・・これがV・VAREN長崎には存在しない。あるのは漠然とした「育成クラブを目指す」という中身がゼロの言葉のみ。このクラブコンセプトの無さが結果的に、1年後、佐野さんのコンセプト頼みとなりチームに大きな衝撃をもたらす事となるのだが・・それは後の話。

つづく

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2011/01/03

年頭と宮尾勇輝用MDP表紙コラム

さて、年が明け新しいシーズンが始まる訳だが、去年の末からず~っと作業やらなにやら継続している関係で・・ちっとも新しいって感じがしない。^^;

なので別に新年の抱負もへったくれもなく、ただただ、今出来る事をコツコツとやって行くと言う・・まるで宮沢賢治の農業に対する取り組みのように自然体だ。うえきさんのようにブラジルへ行く事も坂井君のように婚活に燃える事もなく、ただただ俺は日常をドラマチックに生きたい。

そんな状態なので年頭に気の利いた事もかけなかったりする。

ただ、今月中にはV・VARENの新体制発表もあるだろうし、それまでしか使えないいわゆる時期物のネタを書いていかないとなぁっと思ってPCのファイルを見ていると、去年のオフィシャルマッチデイの表紙用に書いておきながら、使われなかった表紙の文があるのでここに書こうと思う。

去年のオフィシャルマッチデイは3号目くらいから「活躍した選手」「スタメン選手」を表紙にして、それにコラムをくっつけるという方針だった。

以下・・その宮尾勇輝の分だ。

**開始**

 日本サッカー界の父、デビット・クラマーが紹介した英国の格言はフットボールと選手の関係を見事に説明している。
「フットボールは少年を大人に、大人を紳士に育て上げる。」

 宮尾勇輝はセンスを武器に、いつも派手な一発を狙う典型的な点取屋。長崎にやってきて最初の試合では、J1山形相手にダイレクトボレーで初得点を記録。シーズンインしても豪快なミドルシュートでチームのJFL初得点を叩き出す。誰もが昇格したてのV・ファーレンの勢いと宮尾の姿を重ね、期待を高めていった。しかし、その後は中々得点を奪えず、チームの成績も振るわなくなっていく。シーズン終盤・・ホームでの完敗後、彼は人目もはばからずピッチで泣き崩れた。悔しさだけがこみあげる。

 「勢いだけでやっていた」
と振り返るシーズンを終え、宮尾勇輝は少しだけ変わった。
今季初ゴールを決めた試合後のコメントにもそれは表れる。
「メンバーに入れない選手もいる。代表という気持ちでピッチに立つようにしている」

そして、その後にこう続けた。
「1番考えている事はどうやったらヒーローになれるか。目立ちたい、活躍したい!」
少年のような瞳を輝かせ笑った。
紳士になるまで充分に伸びシロをもった宮尾勇輝の冒険はまだまだ終わりそうにない。

**以上**

幾つかのクラブのテストを受けているという話は伝わってきた。

新しい冒険の続きはどこから始まるのだろうか?

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